世の中を見渡すと、いつの間にか「白か黒か」の極論ばかりが幅を利かせるようになってしまった。
一方には、「宇宙の法則ですべて好転する」「波動を上げれば何でも思い通りになる」と熱っぽく語る100%の肯定派。
もう一方には、「科学的根拠がない」「そんなものは情報弱者を騙すビジネスだ」と冷徹に切り捨てる100%の否定派。
ネットや本屋の棚を眺めながら、「いや、どっちも極端すぎるだろう」とため息をついてしまうのは僕だけではないはずだ。
熱狂的な肯定派の輪に入って一緒に盛り上がる気には到底なれないし、かといって否定派のように何でもかんでも理屈で論破して冷笑する側に回りたいわけでもない。
どちらの極端なノリにも付き合っていられないと感じる人にとって、今の世の中の論争はひどく息苦しい。
どちらの極端なノリにも付き合っていられないと感じる人にとって、今の世の中の論争はひどく息苦しい。
僕たち普通の人間が求めているのは、怪しげな教祖への盲従でもなければ、他人を論破して得られる無機質な正論でもないはずだ。
肯定派の「切実さ」と、否定派の「正義感」
誤解のないように言っておくと、僕はどちらの立場も頭ごなしに否定する気はない。
肯定派の人たちが目に見えない力にすがりたくなる背景には、理屈や努力だけではどうにもならない過酷な現実がある。
突然の病気、人間関係の軋轢、将来への拭えない不安。八方塞がりの夜に「明日も生きてみよう」と思えるための最後の砦として、祈りが必要になる瞬間は誰にだってある。
それを「非科学的だ」と笑う権利は誰にもない。
突然の病気、人間関係の軋轢、将来への拭えない不安。八方塞がりの夜に「明日も生きてみよう」と思えるための最後の砦として、祈りが必要になる瞬間は誰にだってある。
それを「非科学的だ」と笑う権利は誰にもない。
一方で、否定派の言うことも痛いほどよく分かる。
不安につけ込んで高額な壺やセミナーを売りつける悪質なビジネスが実在する以上、「目を覚ませ、現実に足を着けろ」と警鐘を鳴らすのは極めて真っ当な正義感だ。
不安につけ込んで高額な壺やセミナーを売りつける悪質なビジネスが実在する以上、「目を覚ませ、現実に足を着けろ」と警鐘を鳴らすのは極めて真っ当な正義感だ。
どちらも根底にあるのは「良く生きたい」「騙されたくない」という人間の切実な本能なのだと思う。
だからこそ、この二元論の泥沼に入り込んで「信じるか、信じないか」の神学論争で消耗するのは、あまりにも時間がもったいない。
だからこそ、この二元論の泥沼に入り込んで「信じるか、信じないか」の神学論争で消耗するのは、あまりにも時間がもったいない。
神経質な僕が、大いなる存在を信じる理由
正直に告白すると、僕は普段、かなり神経質な部類の人間だ。
日々の段取りや道具の配置、仕事の手順ひとつ取っても、筋が通っていなかったり乱れていたりすると落ち着かない。
論理的な整合性や事実関係にこだわり、納得がいかなければ自分で調べて確かめないと気が済まない、筋金入りの「理屈屋」である。
日々の段取りや道具の配置、仕事の手順ひとつ取っても、筋が通っていなかったり乱れていたりすると落ち着かない。
論理的な整合性や事実関係にこだわり、納得がいかなければ自分で調べて確かめないと気が済まない、筋金入りの「理屈屋」である。
そんな僕だが、神社にはよく足を運ぶし、神様や高次元の「大いなる存在」を信じている。
鳥居をくぐり、砂利を踏みしめて参道を歩くとき、ふっと肺の奥深くまで空気が入るような感覚がある。
あの張り詰めたような静けさに身を置くと、頭の中で四六時中ガチャガチャと鳴り響いていた雑音や思考が、すーっと消えていく。
あの張り詰めたような静けさに身を置くと、頭の中で四六時中ガチャガチャと鳴り響いていた雑音や思考が、すーっと消えていく。
そして、僕の中でひとつ明確に決めているルールがある。
神社は何かのお願いごとをしに行く場所ではなく、「感謝を伝えに行く場所」だということだ。
神社は何かのお願いごとをしに行く場所ではなく、「感謝を伝えに行く場所」だということだ。
「あれを叶えてほしい」「運気を上げてほしい」と欲をぶつけに行くのではない。
今日も無事に生きていること、日々の暮らしが保たれていることに対して、静かに手を合わせ、ただ「ありがとうございます」と感謝を報告する。
今日も無事に生きていること、日々の暮らしが保たれていることに対して、静かに手を合わせ、ただ「ありがとうございます」と感謝を報告する。
これを「メンタル調整」なんて小難しい言葉だけで片付けるのは、あまりにも無粋だ。
科学のエビデンスや論理的思考は、生活を守るために不可欠な道具である。
しかし、広大な宇宙や生命の営みを見渡したとき、人間が解き明かせていることなどほんのひと握りに過ぎない。
人智を超えた大いなる存在に敬意を払い、静かに頭を下げることは、僕にとって少しも不自然なことではないのだ。
科学のエビデンスや論理的思考は、生活を守るために不可欠な道具である。
しかし、広大な宇宙や生命の営みを見渡したとき、人間が解き明かせていることなどほんのひと握りに過ぎない。
人智を超えた大いなる存在に敬意を払い、静かに頭を下げることは、僕にとって少しも不自然なことではないのだ。
「51:49」の黄金比で生きる
そこで僕がたどり着いたのが、「51%のスピリチュアル」という生き方だ。
100%信じ込んで自分の人生のハンドルを何かに丸投げしてしまうのは危うい。
けれど、100%論理だけで武装して生きるのは、あまりにも息が詰まる。
けれど、100%論理だけで武装して生きるのは、あまりにも息が詰まる。
日常の49%は、現実的な視線でしっかり固めておく。
自分の仕事や生活を丁寧に回し、体調を整え、怪しい儲け話には近寄らない。
この「神経質さ」や「現実主義」は、自分と家族を守るための頑丈な防壁だ。
自分の仕事や生活を丁寧に回し、体調を整え、怪しい儲け話には近寄らない。
この「神経質さ」や「現実主義」は、自分と家族を守るための頑丈な防壁だ。
でも、最後の51%――過半数のほんのわずかな隙間だけは、大いなる存在にポンと委ねてしまう。
やるべき現実的なことはすべてやり切った上で、静かに手を合わせて感謝を伝え、「あとは大きな流れにお任せします」と肩の力を抜く。
誰かに救ってもらう必要はない。
救世主も論破王もいらない。
誰かに救ってもらう必要はない。
救世主も論破王もいらない。
自分の機嫌は自分で取りながら、現実を泥臭く歩き、心の中では大いなる存在に静かに感謝する。
白黒つけないグレーゾーンの余白を持てることこそが、酸いも甘いも噛み分けた大人の特権ではないだろうか。
白黒つけないグレーゾーンの余白を持てることこそが、酸いも甘いも噛み分けた大人の特権ではないだろうか。
答えを急ぐ必要なんてどこにもない。
のんびり行きましょう。
のんびり行きましょう。


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